7 【八田與一と烏山頭水庫】 八田與一は、台湾では中学校の歴史教科書『認識台湾』に掲載され、最も尊敬される日本人として知られる。1886年(明治19年)、石川県河北郡花園村(現在の金沢市今市)に生まれ、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木課の技手として勤務、56歳で亡くなるまでその生涯のほとんどを台湾で過ごした。 最大の仕事は、15万haに及ぶ嘉南平野に農業用水を供給するための灌漑工事。嘉南平野は河川が少ないために深刻な旱魃の危険に常にさらされた不毛の土地。農民たちは水不足に悩まされながら貧しい生活を送らざるを得ず、また雨期には逆に洪水の危険があるという治水事業が不可欠の場所。 八田はその大規模な水利工事の指揮をとり、ダムを建設して水源を確保し、さらに水路を平野に縦横に張り巡らせて、不毛の地を豊饒な大地へと変貌させたのである。 1920年(大正9年)から始まった工事は10年にも及びその陣頭指揮を八田が担った。その結果、貯水量1億5千万㎥の大貯水池・烏山頭水庫と、嘉南平野一帯に16,000kmにも及ぶ細かく張り巡らせた水路がついに完成したのである。これにより嘉南平野は台湾最大の肥沃な穀倉地帯へと生まれ変わったのである。 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)、フィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、「大洋丸」に乗船して五島列島南方を航行中、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没、56歳で不慮の死を遂げた。その3年後の敗戦を迎えて日本人は台湾から去ることになったが、八田與一の妻・外代樹(とよき)は、傷心の中で、いつまでも夫とともにいたいとの想いから、夫が心血を注いでつくりあげた烏山頭ダムの放水路に身を投げたとのこと。台湾の人々は、八田夫妻の悲しい最期を嘆き、「八田與一、外代樹之墓」と刻まれた墓石を建て、 毎年、八田の命日の5月8日には墓前祭が行なわれる。 訪問した当日は多くの台湾の人々が八田與一の墓を訪れ献花する姿が見られた。こうした光景を通して八田與一の功績がいかに大きかったのかを肌で感じるとともに、長きに亘り尊敬されていることを実感することが出来た。
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